SPACE銀河 Library

作:朱鷺

いちじく遊び II

 今夜も、裕樹と一緒にこのホテルに入る。これからのストーリーはもう解りきっている。またここで、いつもと同じような羞恥と苦痛と快楽が行われるのだ。
 いつもながらのその行為は、私に何を与えて、何を奪い取るのか?やっている裕樹も、やられている私も、良く理解していないままで、何度も繰り返されて来ている。

 いわゆるラブホテルという場所で、男女がやることなどと云うのは、大体が決まり切った行為だろう。お互いが裸になり、性的な興奮を与え、快感を貪る。お互いの性器や手や口で、相手を刺激し、快楽を引き出すのだ。しかし、私たちの間では、世間の人達が行うのと、ちょっとだけ違った行為が行われ、それを快楽の種子にしているのだ。
 これを読んでいる人なら、もう御存じだろう。「浣腸」という行為、医療の一分野として、便秘治療の行為として、肛門から液を注入し、排便を促進させるという行為が、性技の一部としても使われることを。それを私たちは、性行為の一部として行っているのだ。

 裕樹がなぜ私に浣腸をするのか。本当は、裕樹自身にも理解出来ていないんじゃないかと、思う時もある。それ以上に、私自身は、なぜあんな羞恥と苦痛を受け入れてしまうのか、自分でも良く解らない。浣腸をされれば、いやでも大便が出る。普通の人の感覚では、それは他人に見せてはいけない行為だし、出てきたモノも、他人の目に触れさせてはいけないモノだ。そういう常識は、もちろん私も持ち合わせているし、それに対するタブーや羞恥心は人一倍大きいと思っている。だから、浣腸された後の便意には、限界まで抵抗してしまうのだ。
 でも、その抵抗は、必ず崩れさる結果に有る。頭では、理論では解っている。浣腸の便意を意志の力だけで抵抗して、それに打ち勝つのは不可能なのだ。
 たった40ccのグリセリン溶液が私の体に与える影響は、単純に医学的な見地では、大きなものではない。便通を促す効果が有るだけだ。だが、裕樹からその行為を受け入れるという事が、私の心に与える影響は、毎回とても大きなダメージとなり、私と裕樹の関係を独特なものにしてしまう。今晩もこれから、そのストーリーが展開される。頭では理解していても、体はその刺激を求めてしまう。裕樹と話すところの「囚人の幸福」というものだろうか。こんな羞恥を与えられる事に、幸福さえ感じてしまうのだ。

 もう何度も来た事のある部屋に入る。裕樹のお気に入りのラブホテルの一室だ。この部屋を裕樹が好んで使うのは、そのトイレの構造が、羞恥心を掻き立てるのに最適だからだ。裕樹からの浣腸を、性行為の一部として受け入れるようになって、何度目かの事だった。
 初めてのこのホテルで、浣腸の結果の便意を堪え、裕樹に連れられてトイレに辿り着いた私は、このトイレを見て、そこでの排泄を躊躇した。少し古びた和式の便器が、タイル張りの床の一段高い位置に、入口のドアに背を向けるように有ったのだ。もちろん、ドアを閉め個室に籠っての通常の排泄ならば、洋式だろうが和式だろうが、使用に問題は無い。しかし、その場で私が直面していたのは、浣腸の結果を観察されるための、裕樹の目前での排泄行為だった。洋式便器に座って、裕樹と向かい合っての排便でさえ、充分恥ずかしいのに、裕樹にお尻を向け、一段高い位置にしゃがみこみ肛門をまじまじと見られながらの脱糞は、とても出来ることでは無かった。
 だが、どんなに私が抵抗しようと、泣いて許しを乞おうと、浣腸の結果の破局は訪れてしまうし、裕樹の意志に逆らってドアを閉めようと抵抗する余裕すら無かったのだ。文字通り、裕樹の目の前での排泄行為は、屈辱的なものだった。医師として、医療行為としての浣腸とその結果は、どんなものか熟知している。それに立ち会った事もあるから、排泄時の音、臭気、便の状態など、他人に察知されると恥ずかしいものが、発生することも承知している。
 恋人にそれらを知られることは、女としての存在が根本から脅かされるような羞恥だ。
だが、どんなに堅い意志を持っても、人体は僅かな薬品の刺激にすら耐えられないほど脆い。グリセリンの与える腸への刺激は、必ずその結果をもたらす。

 今晩も、いつものように抱き合い全裸になる。手順はほぼ決まり切っている。最初は浴室で、お互いの体を丁寧に洗うのだ。裕樹のペニスは服を脱ぎ捨てた時点で、すでに勃起している。浴槽に浸かった後、手にソープを取り、素手で塗り込むように、お互いの体を洗う。
 私の体の表面を、裕樹の手が弄ぶように行き来すると、それだけで肌に快感が走る。あまり自信のない小さめな乳房を、包み込み下から持ち上げ、乳首を指先で挟みこみ、泡で満遍なく包み込む。下腹部の繊毛でソープを泡立てるようにして、それを陰部から肛門へと、引き延ばし、素手で擦る。もちろん、臀部も包み込み、肛門も指先が侵入するかのように丁寧に洗ってくれる。あまり肉付きの無い私の体も、そうやってマッサージされるように洗ってもらう間に、柔らかさが増してくるようにも感じる。
 私も、裕樹の筋肉質の体に自分の手を伸ばし、体全体を擦りつけるようにして洗う。これから私を貫くはずのペニスは、私の手から弾けそうに天井を指している。裕樹にされた事のお返しのように、陰嚢から肛門にかけての部分を、泡立てた手でマッサージするように刺激する。時々、このまま肛門の内部に指を入れてみたいと、思う事も有る。私も医師なので、職業として患者に対しそういう診療を行う事もある。医学的な知識で、その内部に前立腺が有り、刺激することで、簡単に射精につながることも知っている。でも、裕樹はそういう行為を望まないだろうということも、充分承知している。裕樹の望むのは私を征服し支配することであり、そうやって私の手によって、射精に導かれる事では無いはずだ。浣腸という行為で、私の意志に反して便を出させ、私を羞恥に追い込むことが、征服の証なのだ。

 お互いの体を洗い、泡を流し終え、タオルで拭き、ベッドに横たわる。この先の行為を充分に承知しているのに、私はそれに慣れることが出来ない。裕樹はあくまでも優しく、恋人として私の体に快感を与え、なおかつ、征服者として私を支配する。ベッドに横たわる私に、優しく覆いかぶさり、キスをする。その唇は、やがて私の唇を離れ、胸へと下り進む。乳首を舌先で弄び、さらに臍へ、その下へと移り行く。私の陰部を、舌と唇で、時には歯で軽く噛み、刺激を与え、快感の高みに誘導する。その間の私は、おもむろに裕樹のペニスに手を伸ばし、手で弄んだり、口に含んだりしながら、お互いの性感の高まりに酔う。心の中は、このまま普通の性感で、絶頂に達したいという本能と、この先の被虐の展開を、恐れつつ待ち望む気持ちとが、駆け巡る。そんな心中を知ってか知らずか、裕樹は行為を中断し、おもむろにあの凶器を取り出し、私の目の前に見せつけるように、それを突き付けるのだ。
「今日もこれを使って、恥ずかしい事をしてあげるからね。」
そう言われると、私に拒否は出来ない。
「はい。お願いします。」
と、羞恥にまみれながら、答えるしか無いのだ。
 凶器とは言え、それはほんのささやかな家庭用の使い捨てのいちぢく型の浣腸だ。そのピンクの形状と細い先端部は可愛いという表現さえ似合うかも知れない。もちろん、医師という私の立場にあれば、業務上のもっと大きなディスポタイプの入手も可能だ。実際に、それを都合して自分用に使用している同僚看護師なども居る。しかし、それを私が手に入れて、裕樹に渡すことは無いだろう。それは裕樹が望んでいる事とは違うはずだ。また、私も自分にさらに大きいダメージを与える凶器の使用は望んではいない。あくまでも、二人の目的は耐えている間の苦痛と破局の瞬間を待つ羞恥なのだ。

 裕樹が、いちぢく浣腸を手にして、私の体の上に戻る。69のポジションで、私は体を入れ替え、裕樹の上になり、ペニスを口に運ぶ。それは、羞恥とやがて襲う便意の苦痛から、少しでも意識を逸らせ、目の前の性感に没頭しようとする逃避だ。裕樹は私の体の下になり、股間から顔を覗かせ、私の双臀を押し開き、おもむろに肛門に指を伸ばす。私のヴァギナはすでに愛液を流し続け、クリトリスは充血し、肛門さえも愛液にまみれている。いちぢくの先端がそこに侵入するのにも、なんの抵抗も示さない。だが、肉体ではなんの抵抗もなく受け入れているが、心ではその侵入は降伏の第一歩なのだ。
 裕樹は、私のそんな心を弄ぶように、液の注入をせず、先端の出し入れを繰り返す。やがてその合間にちょっとだけいちぢくを押しつぶし、液を腸の中に流し込む。出し入れの刺激は、ほとんど感じないが、水鉄砲でも撃つように腸壁に当たるグリセリンの刺激は、思わず体を強張らせてしまう。この液がやがて便意の塊となって、私の肉体を責め苛むのだ。何度も、そうやって焦らすように、微量の注入を繰り返し、40ccの液体のすべてが、私の腸に注ぎ込まれる。まだ便意がやってくるには、時間の猶予は有る。だが、必ずその時は訪れるのだ。

 裕樹は私のクリトリスとヴァギナへの愛撫を続けてくれる。しかし、私は破局までの間に更なる刺激を求めてしまう。裕樹のはちきれそうに大きくなったペニスにコンドームを装着し、体位を入れ替え、すでに充分すぎるほどの興奮の中に有る私自信の中へと、迎え入れるのだ。
 ヴァギナの中での裕樹のペニスの刺激と、直腸へのグリセリンの刺激とが、相乗効果を起こし、私をクライマックスへと向かわせる。しかし、高まる便意は、絶頂へ達するのをためらわせる。快感の高みに達して、その後の脱力状態を迎えた時、内部から噴きだそうとしている圧力に、抵抗出来る自信が無いのだ。ホテルのベッドの上での脱糞だけは、何としても避けたい。たとえ、裕樹に肛門を覗き込まれながら、和式便器で排便することになろうと、便の失禁とは羞恥のレベルが違う。それに、後始末等の問題もあるし、たとえそういうホテルだろうと、アブノーマルなプレイをしている客だという事を悟られることなど、考えるだけでも赤面してしまう事態だ。
 裕樹もそこまでの事は、させるつもりは無いらしい。以前、そんな心配を口にした時、
「それならバスルームでする?洗面器で受けとめてあげるよ。」
などと笑って言ったが、実際にはそういう事を示唆もしない。
 裕樹の体の上での快感の成就は、グリセリンの影響を脱してからの事になる。快感と便意による腹痛との狭間で限界を迎えると、私は無理矢理に裕樹の与えてくれる快感から、体を引きはがす。それは、睡魔と闘いながら目覚まし時計のベルを押す感覚に似ている。快楽に引きずり込まれたい心を、現実が邪魔するのだ。

「もうダメ!」
私のその一言で、裕樹も次の行動へと素早く移行する。裕樹のペニスを自分の快楽の為に弄んで、射精まで行かせてあげないのは、ちょっと済まないような気にもなることが有る。でも、元はと言えば、裕樹が私に与えるいちぢくが原因で、この中断が起るのだ。それはお互いに承知している。そして、私にはこの先に更なる羞恥が待ち受けているのだ。
 裕樹は素早く起き上がり、私の崩壊寸前の肛門を押さえ、抱きかかえるようにして、トイレまで連れて行ってくれる。そして、その和式便器に私を跨らせると、その後ろにしゃがみこみ、目前で観察出来る位置で、私の決定的な瞬間を待つのだ。
 このお腹の状態で、このポジションを取らされれば、その先の成り行きは100パーセント決まっている。それは逃れようのない事だ。しかし、私の理性や感情は、理論では逃れられない崩壊を、容易く受け入れない。肛門が内部から捲れあがり、破裂音や臭気と共に脱糞するシーンを、自分が演じるなどということを、最後まで拒むのだ。
 私が担当する患者にも、そういう人も居る。病院で医師や看護師は、患者に対して絶対の権限を持つ。治療の為に、裸になって患部を見せ、薬を塗られ、注射をされ、便や尿を採取され、浣腸をされる。そういう行為を、病気の治療の為だから仕方ないと言って、素直に受け入れる患者さんも多い。だが、中には、とくに若い女性患者に多いのだが、自分の体への処置に抵抗を示す人も居る。中学高校くらいでは、聴診器を胸に当てるだけでも、ためらい恥じらう娘も多い。まして、婦人科や肛門科、消化器内科での下部消化管疾患などは、羞恥の最たるものだ。つまり、パンティーの中身を見られるのは、死ぬほど恥ずかしい、たとえ医師であろうと、女医であろうと、という事だ。そういう患者は、診察を何度繰り返しても、慣れる事は無い。初回と同様のためらいと恥じらいを見せる。一部の妊婦でもそういう人は居る。行為の結果がお腹に居るのだから、今さらと思うが、やはり性器を第三者に押し開かれるのは、恐怖なのだ。

 そういう私も、裕樹からされる浣腸という行為は、何度経験しても慣れない。そして、その結果の排泄を裕樹に見られるのも、羞恥が薄れる事は無い。今夜もその限界が近づく。抵抗すれば抵抗するほど、効果は出るのだから、結果が恥ずかしいものになることは、頭では解かっている。いっその事逆らわずに、初期の便意の状態でグリセリン液だけを排泄してしまえば、下痢状の便を恥ずかしい状態で見られるという事態は、避けられるのではないか。そう思う事もある。便秘治療が必要な病人では無いのだから、どうしても便通が無ければいけない訳ではない。だが、裕樹の目の前で、肛門を緩める行為は、たとえ中から出るものが液体だけだと思っても、なかなか実行に移せない。裕樹も、そんな私への行為だから、興奮と愛情を感じるのだろう。「見て見て。出るわよ。」などと、羞恥の欠片もなく言いだすような相手なら、こんなプレイには興味が薄れるだろう。そして、やはり今夜も、限界に到達し、肉体が降伏するまで、肛門を引き締め便意との無謀な戦いに精力を費やしてしまうのだ。

 やがてその戦いも敗色が濃厚となる。限界を超えた便意は、私の肛門を押し開き、グリセリン液が迸る。それに続き、固形物も流れ出し、裕樹の目の前を通過し、臭気を残して、便器に落下する。活性化された腸の蠕動の音と、内容物の噴出する音が、私の耳にも達する。当然、裕樹は目前の光景とシンクロさせながら、その音を聞いているはずだ。音と臭気だけでは無い。自分の体の感覚も、私を困惑させる。腸の中の嵐が、肛門を押し開き、液体が迸る感覚。その後に続く柔らかくなった固形物が、肛門を通過する感覚。そして、自分の意志に反して、解放と収縮を繰り返す肛門。羞恥で引き締まり、苦痛から逃れるために解放してしまう、自分の意志で制御出来ない自分の体の一部。何度経験しても、同じような羞恥が私を苛む。両手で顔を押さえ、裕樹に見られないようにして、ひたすらその羞恥を堪えるしか、私に出来る事は無いのだ。
 やがて、私にとって永遠にも感じられるような時間の後、腸の中の嵐も勢力を失い、終息が訪れる。ヒクヒクと独立した生き物のように蠢いていた肛門も、次第に収縮し、元の菊の蕾の状態に戻る。私が、顔を覆う手をそっとずらし、裕樹を振り向くと、それを終了の合図にして、羞恥のクライマックスは一段落する。裕樹は優しく私の後始末をしてくれる。ペーパーで拭きとり、バスルームへ誘導し、体全体をシャワーで洗ってくれる。バスタオルに包まれ、ベッドに戻るまでの私は、人形のように、裕樹のなすがままになっている。

 ベッドでの第二幕は、お互いに肉体をぶつけ合う荒々しいものではなく、お互いをいたわりながら、二人同時に快感に達する為の、おずおずとした共同作業だ。時には向かい合って、時には後ろ向きで、また唇や舌で、裕樹のペニスを受け入れながら、私自身も穏やかな気持ちで、快感の絶頂を迎える。
 裕樹は、指先で肛門をなぞったり、耳元でさっきの様子を囁いたりして、羞恥の名残を思い出させながらも、決して私を不快にさせたり、怯えさせたりするような、一線を越える事は無い。やがて、裕樹の絶頂の迸りを迎え、二人の行為は完了する。それは穏やかで優しい行為だ。

 こうして、今晩も二人の関係は、決して他人には語れないような行為を重ねて、絆を深めて行く。このまま、一生を共に過ごし、これからもこう言うプレイを続けて行くのか。それとも、こんな関係もやがて終りを迎え、いつか過ぎ去った過去のものになるのか。そんな事をふと思いながらも、二人の関係は続いて行くのだ。



掲載作品一覧